内田陣屋跡

先日7月5日に、Googleからメールが来た。





それは昨2021年3月に閉校になった内田小学校を、久しぶりにGoogleEarth で見ると、
なんと内田陣屋跡となっており、現地をリポートしたコメントまで載っていた。
そこで、場所が違うと訂正したのが昨年秋も深まった頃。


上のメールの一週間後、すぐ次のメールが来た。




最初のメールではアクセス3000件、一週間後のメールではアクセス数が4000件になっていた。


B地点が閉校になった内田小学校、元中学校の場所、A地点が元小学校、北側の校舎が内田未来楽校。


間違ったところの現地レポートまであり、遺構ははっきりしない、と。
元々陣屋跡でも無い所に遺構など有るわけが無い。


その時見た他の投稿でも、国土地理院の資料という手書きの陣屋跡が、B地点の小学校のスケッチだった。



何故そんな間違いが起きたのか。


閉校した内田小学校の場所Bは、元は内田中学校だったところ。校舎建設は昭和25年で、東京オリンピックの39年(1964)に卒業した我々が最後の卒業生で、隣の牛久中と合併した。その後昭和40年(1965)に内田小学校が引っ越してきたのである。この場所は、中学校校舎建設のため、山を崩し畑だったところを整地したものである。


小学校の跡地Aは、払い下げられ、民間の所有地となり、南側校舎(大正3年築)は、それから数年後に焼失、北側校舎(昭和3年築)は、工務店が作業場として使用していたが、廃業で売りに出され、有志でこれを買い取り、内田未来楽としたものである。(2014)(写真の緑色三角印)
運動場の赤丸印バックネット辺りが現在の郵便局で、三角赤印が役場、(現在の交番の場所)当時はここに郵便局が入っていた。



黄色い道路が現在の409号線、当時からは拡幅されているので、両側は景色が変わっているがほぼ形は保っている。


内田未来楽校として活動を始めて間もなく、古い内田郷地図が発見され、これは写真に納めて内田未来楽校で公開されたが、現在は千葉県文書館に所蔵されている。この地図は1726年作成のもので、内田小学校の運動場だった辺りに陣屋が描かれている。現在は、民家が建っており、又小学校の時代から遺構は残っていない。



伊丹氏の関係の墓所は、現在も安久谷に残っており、屋敷跡にお住まいの方が現在も守っておられる。


黄色〇印は、閉校した内田小学校の場所(島田)。


国土地理院の作画と言うモノも平成に入ってからのもので、内田小学校が移転したことを知らない御仁が、「陣屋があった所は内田小学校の場所」という言葉だけで、よく調査をせずに特定したものと思われる。


昨年の時点で登録されていなかった真ヶ谷城趾も、見当外れの場所になっていたので訂正しておいた。


もっとも、私の場合、学校に通っていた時代には、陣屋の話など聞いた事も無く、伊丹氏が治めていたことも知らなかった。内田未来楽校で活動を始めてから知り得た話である。内田小学校100年誌にも載っていないので、殆どの人がそうではないか、と思う。