「タケチャン」と呼ばれた

青森営業所から、私より二回り大きい体躯の男が千葉営業所へ転勤してきたのは、
四十年ほど前のことだ。
訛りがあったが、それは茨城弁に近かった。千葉県は北総の出身だった。
大きな身体に似合わず、穏やかで当たりの柔らかい、好感の持てるヤツだった。


当時は今ほど規模が大きくなく、営業も工事も担当する営工と言う役だった。
技術的に困ったらすぐ相談してくれ、何でも解決するから、と私は生意気にも言ったものだ。
コンピューターが機器に組み込まれる前の時代、ダイオードとリレーがあれば大体なんとななった時代である。
思い出話をすると、それでずいぶん救われた、と必ずその話が出た。


配属早々入札で金額を一桁間違えた、ということもあったが、営業的センスは良かった。
やがて本社の副社長から、営業担当として東京へ引き抜かれた。


どのくらい時が経ったか忘れたが、早期退職して独立した。
生まれた地域の営業を担当する営業所が無かった、と言うより、誰も廻っていなかったのだ。
しばらくの間、会社のサテライト営業所として機能していた。


二人の男の子が大きくなった頃、奥さんに先立たれた。
男手でその二人を育て上げ、会社に預けて修行、いよいよこれからと言うとき、
長男が他界した。その落胆ぶりは大変なモノだった。


それでも努力の甲斐あって、二男が立派に仕事をこなすようになり、狭くなった事務所を離れ、新社屋に引っ越した。それはこの春のことで有る。
古い事務所の初期こそ、パソコンなどの導入は業者任せだったが、詳しい社員が入社すると、彼が全て熟したが、やがて居なくなると、全て私に振ってきた。


私が、友人の誘いで駅からハイキングに参加するようになって暫くした後、彼も誘った。
そのうち、彼の友人数人ともハイキングに出かけるようになり、尾瀬歩きもした。
那須の温泉にも入りに行った。


ただ、起伏のあるところはさすがに敬遠していた。
私が参加せず、彼のグループだけで出かけるようにもなった。


コロナ過でほぼ出かけなくなり、そろそろ出かけたいねえ等と言っていた。




22日夜、「おー、タケチャン」と言って今にも置きだしてきそうな穏やかな顔がそこにあった。
祭壇の額の中から、人なつっこい笑顔で弔問客を観ていた。






前日まで何一つ変わりなく仕事をしていて、翌朝出社してこなかったのだ。
第一報が入ったとき、名前を言われてもとっさに頭が回らず、何処の人?と聞いてしまった。


享年72才、私より一つ若い。


出社すると、朝一で私のブログを見るのが楽しみだ、と言って、書かない日が続くと、
催促してきたりしていたが、もうこの記事を見ることもない。